未来のミライを見て、いたたまれなくなった思い出
こんばんは、ハザマシジマです。
未来のミライが地上波で放送されたということで、大分前に映画館で観たときの感想を思い出しながら書きます。
初めは綺麗な映像と、途中に挟まるホラーに惹かれて、観ることを決めました。
その決め手の通り、映像は非常に綺麗でした。
動きに関しても、景色に関しても。
特に、馬の背中に乗った時の視点の高さや、馬に揺られている視点の表現がとてもリアルに感じました。
途中のホラーアニメも、適度に心地よく恐怖を煽ってくれました。
が、その他にも、私にとっては予想外の刺激が。
恐怖や狂気の描写で精神を削られるのはもともと好きでしたが、何やら心地よくない精神の削られ方も同時に感じました。
妙な生々しさに、哀しさと居心地の悪さ。
あとから思い出して、その生々しさ、居心地の悪さの発生源を特定しました。
それは、主人公くんちゃんのリアルな幼さからです。
私にとって、彼の幼さが生々しく感じられるのは、作中で何度も繰り返す台詞
「好きくない」からです。
これが、彼のリアルな幼さと
それによって際立つ冒険の精神的な過酷さを感じて
本当に精神に来ます。
いたたまれなくなる、という表現が丁度いいです。
ホラー描写全般(もっと言えば猟奇的なものも)好きなのに、
未来のミライに関しては、そのいたたまれなさがあって、
「刺激的で楽しい」よりは「辛い」が先行します。
まず、「好きくない」が表す彼の幼さについて。
彼が何度も繰り返すこの台詞、
「限られたボギャブラリーの中から、必死に怒りを表現しようとしている」
という感じが、聞いているだけでも非常に辛くなります。
大人からしてみれば、一見滑稽にも見えるようなフレーズだから、なおのこと。
実際の幼い頃の私は、頭の中にある感情や思惑に、
語彙力が追いついていなかった感覚があります。
それも相まってか、「好きくない」という台詞を聞く度に、
そう言った彼が責められる度に、
まるで過去の自分まで責められたかのようで、心がひりつきます。
これが、同じくらいの年齢でも、
野原しんのすけが同じ冒険を繰り広げていたとしたら、
そこまでいたたまれなくなることはなかったと思います。
何故なら彼は、数々の映画で苦難を乗り越えてきたことを抜きにしても…
5歳とは思えない程の頭の回転が、台詞から分かるからです。
お姉さんをナンパしたり、知り合いをからかったりするときに見られる、大人並の流暢で表現豊かなフレーズ。
彼には、大人からすればくだらないことを楽しむような「おバカさ」はあっても、実際の5歳児らしい「生々しい幼さ」はくんちゃんほどは見られません。
せいぜい、しんのすけの幼さとしては「好物や趣味が子供らしい」「生活全般がだらしなくなりがち」くらいのものだった記憶。
「好きくない」というフレーズにも見られるような
リアルな幼さを抱えたくんちゃんが、
現実世界では十分に甘えることができず、
家族や先祖の過去まで一気に知らされ、
未来の自分自身?や妹にきついことを言われ、
「ミライを家族と認めないとここから帰れない」と家族への思いを強制的に持たせるような仕打ちも受け…
「小学校すら行っていないような子供に、その冒険は過酷すぎるだろう」と
思わざるを得ませんでした。
映画ラストでの彼は、すっきりした顔になっていたようで、
「彼が一連の冒険を傷として背負うわけではないのだろう」と感じ
私の中のいたたまれなさに対しては、それがせめてもの救いでした。
今回は以上です。
暗めな話でしたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!