個人的精神構造分析:諦め(+依存)について
こんばんは、ハザマシジマです。
私の精神構造について考えてみたところ、気が付いたことがあったのでそれについて。
初めに、得られた気づきについての要約を。
自分の望みが裏切られる状況であるならば、その望みを諦めることにより、望みの裏切りによる精神ダメージを削減できる。
しかし、諦めを身に着けると、後でその望みを叶えられる機会がやってきても、よほど分かりやすいものでなければ発見できなくなる。あるいは発見できても疑って機会を掴もうとしなくなる。
では、よほどのものが来た場合は?
「機会はこれしかない」と深く機会を追うか、周りの都合で機会が奪われるよりは自分のタイミングで機会を諦めた方がダメージが少ないとして道半ばで自ら諦めることになる。
例え前者を取るとしても、機会の存在を常に疑いながらの行動となり、機会の存在に対する保証が常に欲しくなる。
また、諦めと依存の精神状態は人生の早期で身に着けたものであればある程、諦める前・依存する前がどうであったかという情報が無くなるので、身に着けた本人が気が付きにくくなる。
この諦めの突破口となりそうな策として一つ。「自分はどうしたかったか」とゆっくり何度も尋ねること。その最中に強い感情の動きが現れた場合、そこまで強く思ったのは何故かということを念頭に置きながら再び「どうしたかったか」と尋ねる。
分析の詳細は続きを読むからどうぞ。
自分が望むものが手に入らないと、思いが裏切られたとして精神ダメージが入ります。
その状態でも、何らかの手段を使って望むものを手に入れられれば良いのですが、そうれでもなお駄目だった場合、望みが裏切られることに対する精神ダメージを受け続けます。
そういったとき、その思いを諦めれば、裏切られた場合に受ける精神ダメージを削減できます。
ただし、思いが裏切られ続けるよりはダメージが少ないとはいえ、望むものが手に入るわけではないので、それを手に入れる喜びも入ってこない精神状態となります。
諦めという方法をとっても、希望がない嘆かわしい世界にいる(という認識を持つ)ことで、望みが叶わないだけではなく、長期的にはじわじわと精神にダメージを負います。しかしそれでも、望みを裏切られ続けるよりはダメージが少なく済みます。
諦めた状態でも望んだもの手に入れたいという思い自体は消えたわけではありません。すると、本来の望みの諦めの中で何かを手に入れたい思いを成立させるため、代わりの何かを欲するという形で思いを紛らわせる場合もあります。
代わりの何かを欲するにせよ、諦めてすっかり行動を起こさないにしろ、本当に望んでいたものを手に入れる可能性が無いような状況であれば、精神を守るためにはこの心構えでいることが最適です。最も精神へのダメージが少ないので。
しかし、この対処法が枷となる場合もあります。状況や本人の能力が整い、もともと望んでいたものが手に入る可能性が現れた場合です。
可能性が現れても見落とす、可能性を見つけたとしてもその存在を疑うことで掴めない、といったことが起こります。
また、可能性の諦めに至ったのが人生の早期であればあるほど、「可能性を信じていた頃はどうであったか」という記憶が薄くなるので、より自らが持つ諦めに気付きにくくなります。
私自身、人生早期からずっと持っていた諦めに気が付かずに代わりのものを欲しながら歩んでいました。
ここで宣言しておきたいこととして、諦めているのが一様に駄目だと主張しているわけではありません。精神的負担が強い場合や長期にわたる場合は、思いを抱えたうえでの諦めは有効に働きます。
ただ、その諦めを状況が変わっても引きずり続け、今の状況と思いが乖離しているために機会を捉え損ねる場合があるだけです。
自分の諦めに自分で気が付くのは時間がかかります。しかし、その兆候があるかどうかの指標として、以下のようなことを日頃から長期間考えているかどうかがあるのではとふと思いました。
「自分は○○が無い」
「○○できない」
「でも、だって、どうせ(躊躇の態度)」
実際に不可能や限界があっても、前に進める人なら「その中で何ができるか」という視点で考えることができます。
その中で不可能な点や限界にばかり長時間気を取られるのは、何が心に引っかかっていることがあるのだろうと思います。
諦めの突破口となりそうな策について、一つ思い当たったのでそれについても。
私の場合、「どうしたかったか」とゆっくり何度も尋ねてみるという方法が少し効きました。
最初、この問いを自分に投げかけると、私の場合他者からの仕打ちや他者への恨みが強く出てきます。
そのとき、そこまで強く苦しく思うほど大切にしていたものは何だったのかという視点を持ちながら、再び根気よく「どうしたかったか」と尋ねると、自分が大切にしていることが少し出てきました。
それともう一つ。諦めと関連して、依存について。
諦めが入った物事に関しては、それを獲得できる可能性をほとんどの場合見失っています。たとえ見えたとしても、その可能性をだいぶ疑ってかかります。
しかし、非常に分かりやすいサインで、なおかつ諦めた状態の自分でも手が届きそうな機会を認識した場合、「手に入れられる機会はそれしかない」として、その機会に深く入れ込みます。
ただし、同時に諦めてもいるので、「本当はそんな機会は無いのではないか」と(少なくとも無意識下では)疑いながら行動を起こすこととなります。
実際にありそうな例をいくつか書いておきます。そのどれもに機会への疑念が潜んでいます。
※実際にこのような状況があったとしても、背景が常にこの分析によって説明できるという保証は全くできません。
例示が容易な例:愛への諦めがある中、愛を叶えられそうな機会をやっと見つけた場合
ある人は、愛が本物かどうかを検証するため、相手を試す。
また別の人は、愛を逃すまいと相手への働きかけが多くなる。自らを削る場合も。
また別の人は、愛の存在の証拠集めとして、やりとり・写真・文章がかなり多くなる。
また別の人は、周りの都合や事情で突然失うよりは傷が浅いとして、機会が十分にあるうちに自らの手により自らのタイミングで愛を手放す。
上3つは愛を手に入れ続けていても、それを疑っているので確かめずにはいられないという感じでしょう。
これらはきっと多くの場所で語られた内容でもあるだろうとは思いますが、自分で明文化した記念も兼ねてハザマシジマとして公開します。
ただ、同じ内容でも伝え方が違うと受け入れやすさが違う、ということもあります。私のような書き方の文章はあまりないかもしれないということで公開することに意味を感じています。
ネット上にもオフライン上にも色々な教え?がありますが、私にとっては「今の貴方の状況は貴方の所為」という自己責任ベースの書き方も、「こうすることで他者の為にもなる」という他者の感情を使った書き方も、単なる経験則のような書き方もまともに飲み込めませんでした。
善悪という視点を排した上で、物事の因果関係と戦略という視点で考えるのが私には一番合っていました。
ただ、これが真相だったとしても、気が付いただけでは私はまだ解放されていません。まだ憎しみや恨みが渦巻いています。
しかしこの考え方、去年の暮れに公開したBuzzoの精神状態考察で書いたことと似ているような?私は彼について「潜在意識下の思いと意識での思いが食い違っていたのでは」としたのですが、それはまさしく無意識のうちに諦めをため込んでいた私のことではありませんか。
それ以外にも、私のLISA考察はたまにブーメランになっているような気がしてなりません。
というより、誰が書いた精神状態考察であれ、考察者の知り得る範囲を超えた内容の構想はできず、考察者の知識か経験か精神状態が反映されたものとなっているかもしれないと思いました。本編の描写が詳細ではない物語ならなおのこと。
私がLISAの闇を暴こうとしていたと思っていたのに、LISAが私の闇を暴いていたような気がしています。